鬼殺隊の武器である日輪刀。
日光を浴びること以外は基本的に不死身である鬼に対して、その頸 を斬ることで倒すことができる唯一の武器で、持ち主の特性によって刃身の色が変わることから別名「色変わりの刀」と呼ばれています。
そんな日輪刀ですが、モデルになっているであろう伝説の刀が存在します。
今回はそんな伝説の刀、 童子切安綱 について話していきたいと思います。
童子切安綱とは
その切れ味は凄まじく、江戸時代に試し斬りが行われた際、折重なった六つの死体を一振りで全て両断しただけでなくその土台にまで刃が食い込んだという逸話が残っています。
元々の名前は「血吸 」だった
童子切安綱は元々「血吸」という妖刀のような不吉な名前でした。
ではなぜ童子切の号※で呼ばれるようになったのでしょうか。
※刀には号と銘があります。わかりやすく言うと号とは刀の名前のことで、銘は刀工の名前のことです。
それは平安時代中期の武将・源頼光 がこの刀を使って、鬼の頭領である酒呑童子 の首を切った伝説に由来しています。
酒呑童子の首を切った伝説
平安時代、京では酒呑童子という鬼とその手下の鬼たちが人をさらうなどの悪事を働いていました。
時の帝より酒呑童子討伐の命を受けたのが、化け物退治で名を馳せた武将・源頼光です。
頼光は酒呑童子の根城に忍びこむと持ってきた酒を鬼たちに振る舞う宴会を始めました。酒には毒が仕込んであったため、それを飲んだ酒呑童子と鬼たちは身動きができなくなってしまいます。
この隙に、頼光は持っていた刀で酒呑童子と鬼たちに次々ととどめを刺しました。
ここで酒呑童子の首を切ったので、この刀は童子切と名付けられた訳です。
ちなみに日本三大妖怪、最強の鬼と云われている酒呑童子。首を切り落とされてもすぐには死なず頼光に噛みついたという伝承があります。このことから酒呑童子は上弦の鬼ほどの強さを持っていたのではないでかと思われます。
その後の童子切安綱
童子切安綱はその後、足利将軍家へと渡り十三代足利義輝 の最後の戦いで使われただけでなく、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の戦国三英傑の手にも渡ったと云われています。
まさに名刀と呼ぶにふさわしい刀といえるでしょう。
1951年(昭和26年)に国宝に認定されたのち、現在は東京国立博物館に所蔵されています。
天照大明神 との関係
頼光の鬼退治は伝説となりましたが、頼光の手に童子切安綱が渡るまでの話も伝説と呼べるものです。
平安時代、制作者の大原安綱は、自身の最高傑作であるこの刀を征夷大将軍・坂上田村麻呂 に献上しました。田村麻呂は天照大神 からお告げを受けて、この刀を伊勢神宮に奉納します。
その後、伊勢神宮に参拝に来た頼光は、天照大神からこの刀を授かったのです。
天照大神は、頼光が鬼と戦う運命をあらかじめ知っていて、後に童子切安綱と呼ばれるこの刀を授けたのかもしれませんね。
そして重要なのが、この時天照大神から授かった刀実は一本ではなかったということです。
もう一つの名刀「鬼切安綱 」
鬼切安綱は、大原安綱のもう一つの代表作で、童子切安綱と共に田村麻呂に献上され、共に天照大神へ奉納されたのち、共に頼光の手に渡ります。
鬼切安綱は元々「髭切 ※」という名前で、「膝丸 ※」という双子の刀の片割れでした。
※罪人で試し切りした際に、髭まで切ったことから髭切、膝まで切ったことから膝丸と名付けられたそうです。
頼光の手に渡った鬼切は家臣の渡辺綱 に貸し出され、酒呑童子の家来・茨城童子 の腕を切り落とします。
この伝説から「鬼切」という名付けられた訳です。
この茨城童子、後日綱 の伯母に化けて腕を取り返して逃げていったそうです。
酒呑童子がやられた際にもその場から逃走に成功しています。
(©︎吾峠呼世晴/集英社)
下弦の肆・ 零余子 を彷彿とさせますね。
このことから源頼光も渡辺綱も柱レベルの実力を持っていたといえるのではないかと考えられます。
また、あるとき頼光は牛のように巨大な鬼に襲われたのですが、鬼切を使って返り討ちにしたとか。
鬼切はその後、源家によって所有され続け、1927年(昭和2年)に重要文化財に認定されました。現在は、京都市上京 区にある神社・北野天満宮 で保管されています。
まとめ
今回は「童子切安綱」と「鬼切安綱」二つの刀を紹介しました。
童子切安綱といい鬼切安綱といい、大原安綱の作刀した刀剣・日本刀は鬼退治と縁がありますよね。
刀で鬼の首を切るという発想はもしかしたら童子切安綱の伝説がモデルになっているのかもしれませんね!
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